「昭和天皇武蔵野陵」を想う
昭和64年1月7日。この時をどれだけの人が覚えているだろうか。
そして私と同世代の人間たちは、この1月7日という日を、考えたことがあるのだろうか。
私は何も覚えていない。
昭和64年。私はまだ小学生だった。
「昭和の時代」から「平成の時代」になった、といわれても何も感じなかった。
昭和から平成への移り変わり。「 天皇陛下」という存在を意識したことがない小学生はただ「一人の人間」の死が世間を大きく騒がしたことしか記憶になかった。これを「戦後教育」の弊害というのか。それとも正常な姿なのか。私にはわからない。
そもそも、今の若者には「昭和64年」という概念すら欠如しているのかも知れない。
「昭和」を意識するようになり、「 昭和天皇」を知るようになったのは高校生になってからであった。歴史自体は小学生のころから好きであった。小中学生のころの歴史は中国の「三国志」や「春秋戦国時代」を中心にしたものや、日本の「安土桃山(戦国時代)」や「太平記」時代が好きだった、いわば普通の歴史少年だった。
高校時代。何も考えていなかったが、高校は「陸上自衛隊駐屯地」の隣にあった。体育館の裏からはフェンス越しに「74式戦車」(90式ではなかった気がする)が走行しており、学校前の道路は、朝から晩まで迷彩色の「輸送車」が往来。そして上空には時折「CH−47J」が飛来し、ヘリポートに着陸する。
そんな高校だった。
そんな環境で、いつしか「歴史」も「昭和時代」を研究するようになっていた。その過程はわからない。
私の昭和はわずか昭和53年から昭和64年の10年間しか経験はない。
それなのに親しみを感じる時代。一方で深く考えさせられる時代。
「昭和とはなにか?」
このような大それた質問に答えるほどの実力は要していない。ただ、ひとつのキーポイントとして私は初めて「御陵」に行く。
この文章は、ただそれだけのもの。エッセイとして書くほどの準備も出来ておらず、ただ雰囲気を味わうためだけのもの・・・。
昭和64年1月7日午前6時33分。国民の御平癒祈願の必死の祈りの中で、昭和の 天皇陛下は御崩御遊ばされた。八十八歳であった。
即日、 皇太子明仁親王殿下が践祚され、第百二十五代天皇の御位にお就きになられ、年号も「平成」と改元せられた。
あれから、平成の世の中になった。今年で平成十四年。そんなに過去の事でもない。はるかな過去のような気もする。
ただ、私は無意識に機会を捜していた。「武蔵野御陵」に参拝する機会を。
毎年考えていたが、時間がとれなかった。そして今年はじめて参拝することが出来た。この機会を逃すともう二度と1月7日に参拝することができないような気がしたから。
この日は朝から暗雲が立ちこめるように曇っていた。天気予報によると夜から雨が降るという。雨が降るほうが良いかも知れない。
そんな気持ちで「JR高尾駅」に向かう。
「JR高尾駅」。この駅には由緒がある。この駅は寺社風建築として有名だが、単純な寺社風建築ではない。
高尾駅は朝夕の通勤客にあふれる駅。「JR中央線」は高尾−新宿間に「通勤快速」を走らせあわただしく人々は移動する。
そんな駅舎は通勤客が多用する近代的な駅舎ではなく「銅板葺き二重瓦」の重厚な和風建築。この高尾駅舎。もともとは「 大正天皇御大葬」の際に柩を送り出すために設置された「新宿御苑宮廷臨時停車場」の駅舎であり、昭和2年に、 大正天皇が眠る「多摩御陵」にほど近いこの地に移築されたもの。
昭和2年( 大正天皇は大正15年12月25日御崩御。翌26日から31日までが昭和元年。)2月7日に新宿御苑で 大正天皇の大葬がとりおこなわれ、この時に千駄ヶ谷から新宿御苑まで臨時線が建設され「新宿御苑宮廷臨時停車場」が設置。御陵のある浅川(高尾)の東には「東浅川宮廷臨時停車場」が建設され、この間に大葬列車を走らせた。
大葬後、 大正天皇陵への参拝者が急増し、国鉄と京王電軌(京王電鉄)も利用者が急増した。運転本数の多い京王は人気であり、一方で客車列車が走る国鉄はあまり人気がなかった。そこで国鉄利用促進のため「新宿御苑宮廷臨時停車場」の用材を用いて浅川駅(高尾駅)の改築を開始。22日後には神社風平屋建て駅舎が完成し、人々がにぎわうことになった。
この後、京王と国鉄の参拝客獲得競争が激化するが、戦後は「 大正天皇御陵」よりも「高尾山観光ブーム」が到来し、国鉄はそれに迎合するように昭和31年に「浅川駅」を「高尾駅」に改名。観光客を巡り国鉄と京王は肩を並べてきたが、いまでは「高尾駅」は東京のどん詰まりというイメージが強い。
「高尾駅」駅前に立つご老体が二人。案内板を持っている。「武蔵野御陵参拝される方・・・こちら」。やはり、そういう日らしい。予想はしていたが緊張してくる。どんな事態が待ち受けているかわからないがとにかく歩くことにする。
しばし歩くことと15分弱。さすがに前日来の疲れ(こんなこと)もあり足取りは重い。
冷たい空気。緊張は極度に達する。やはり私は場違いなのかもしれない。最初にそんな気にさせる雰囲気がそこにはあった。
入口には派出所があり警官が待機。そしてご老体がたがたくさんおられる。どうやら「みんなで武蔵野陵に参拝する会」の方々らしい。そして一風違う雰囲気を醸し出すかたがたは皇宮警察かも知れない。
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武蔵野の杜。御陵に参拝する。ただそれだけ。それだけのことなのに緊張する。
まず、人が違う。私と同世代の人間は一人もいない。青年もいなければ壮年もいない。
ただ、激動と栄光の時代を生きたであろう五六十代以上の方々しか見受けられない。例えば靖國神社の「戦没者追悼中央国民集会」以上の緊迫感。空気が張りつめる中で参拝する。
鳥居を抜け、前に立って一瞬考える。参拝方式は神道式がいいのか仏式が良いのかということを。冷静に考えれば鳥居を抜けたのだから神道式で間違いはないだろう。そう考えて、神式で参拝を行う。
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そう考えると、やっぱり天皇家は神道なのか?しかし、明治以前はあくまで天皇家は仏式であった。現在では皇族は神式でないと葬儀が出来ない。
そもそも、神道というものの概念は極めて脆い。このような曖昧模糊とした形式をはたして宗教と呼ぶものかどうかはわからない。御陵の前で格の如き事を考えるのも如何かと思う。
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左 :香淳皇后 武蔵野東陵
下 :貞明皇后 多摩東陵 |
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急に、空気が重くなる。警官の数や、どう見てもSP系の人物などが増えてくる。そして、バラバラに参拝していた方々が、一カ所に集まり始める。なにかが始まるようだ。急に恐くなってくる。
「車が入ってきますので右側によってください。」と強制移動させられる。「えっ、車?」この御陵の前まで来るまで入ってくるということは余程の人物がやってくるらしい。場の空気に合わせて徐々に緊迫してくる。
なぜか、皆が私の挙動に注目しているような気がしてくる。とくにSP系の人は、私の回りを警護するかのように立っている。どうにも恐い。でも、何が起きるかはわからない。ただただ、興味本位でいるのが申し訳ない。
だいたいの時間は13時であった。
黒塗りの車がやってくる。黒い服をきたお二人が「武蔵野陵」の祭壇に登る。
「誰?誰だ?」ということで、気になるのでカメラを望遠にしてみると、なんと「 高円宮殿下同妃殿下」であった。私はガラス越しに皇族を拝見したことはあっても、このような間近は経験なく、そして目の前に皇族がいる空間に出くわすのは初めてであった。
空気が張りつめていたのも当然であった。私の緊張は先ほどとは違うものとなっていた。もう体が震えて、その間に立っているのもやっとだった。もうおそれ多くてたまらなかった。「 高円宮殿下」でこの有様であるなら、これが「 天皇陛下」であったら、私はもうどうなっていたかわからない。
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殿下をお迎えした、大衆は40名ほど。参拝していた人にむけ、殿下は頭を下げられる。多分、私は目立っていただろう。なんせ、それだけの数がいても、若者は私一人。それが大まじめに感激して、頭を下げて敬意を表していたりする。
たまたま運良く「 高円宮殿下」の参拝時間と重なってしまったようであった。今年はなにか巡り合わせがよさそうな気もする。でも午前中に参拝していたら、もしかしたらもっと別な人が来ていたような気もしないでもないが・・・。
「武蔵野陵」「武蔵野東陵」「多摩陵」「多摩東陵」を参拝したら、私も帰ろうかと思う。
一体、今日はなにをすべき日なのか?特別な意味が必要な日なのか?
私は、いろいろと考えさせられる。
「昭和」とは何か?
そして「 昭和天皇」は、もはや伝説と化してしまったのか?
一度、大まじめに考えたいと思うテーマがまた増えてしまった。
<あとがき>
もしかして、私の初詣は「武蔵野陵」かも知れません。なんせ神社には行っていないので。
で、ここには鳥居がついているので(笑)。
今回は、あまり実りがない。どうにも筆が重い。内容もへなちょこ(笑)。
<追記・平成14年11月>
平成14年11月21日に 高円宮様が薨去なされました。
ここに心よりの哀悼の意を表させて頂きます。
<参考文献>
『通勤電車なるほど雑学事典』川島令三編著・PHP文庫・2000年3月
『聖帝 昭和天皇をあおぐ』 日本を守る国民会議編 平成元年2月