「帝都の神社風景/明治神宮・東郷神社・乃木神社篇」
<平成13年5月初出/平成14年12月再参拝・平成15年1月再編>
この三社は平成13年5月にサイトに掲載したものではあるが、当時は「神社」に関する興味が薄かったために非常に見苦しい作品であった。ゆえに今回は加筆し、さらに写真を改めて撮影したものに差し替え再編として新しいものとする。
目次
「明治神宮」(官幣大社・渋谷区代々木神園町鎮座)
「東郷神社」(府社・渋谷区神宮前鎮座)
「乃木神社」(府社・港区赤坂鎮座)
「明治神宮」
(官幣大社・朱印・渋谷区代々木神園町鎮座)
祭神:明治天皇/昭憲皇太后
明治神宮は第122代天皇であらせられた「明治天皇」と皇后であらせられた「昭憲皇太后」をお祀りする神宮。
明治天皇は孝明天皇の第二皇子として嘉永5年11月3日(1852)京都において御降誕になり御名を睦仁(むつひと)ともうしました。
16歳でご即位され「五箇條の御誓文」を定め、明治維新の大業をなし遂げられました。また、ご在位46年の明治時代は日本国近代化への大きな飛躍がなしとげられた輝かしい時代でありました。なかでも特に教育の普及と道徳の実践について御心配になられ、国民の誰でもが心がけ実行しなければならない永久不変の徳目を挙げた公式の御言葉として「教育勅語」を公布されました。天皇が国民におおせられた「教育勅語」には「孝行」「友愛」「夫婦の和」「朋友の信」「謙遜」「博愛」「修学修業」「知能啓発」「徳器成就」「公益政務」「遵法」「義勇」の十二徳が挙げられています。
天皇は明治45年御年61歳で崩御になり京都の伏見桃山陵にお鎮まりになりましたが、大正9年に国民の熱誠により明治神宮が創建され、永遠に日本及び世界平和の守神としてまつられました。
昭憲皇太后は嘉永3年(1850)左大臣一条忠香公の第三女としてご誕生になり明治元年12月28日皇后となられました。御名は美子(はるこ)ともうしました。皇后は福祉をはじめあらゆる方面にご婦徳を残され、国民から国母陛下と仰がれました。中でも日本赤十字社の創立と経営にお尽くしになり、現在でも国際赤十字に寄付された「昭憲皇太后基金」は世界の各方面に活用されています。
大正3年4月11日崩御され、天皇と共に京都伏見桃山東陵にお鎮まりになり、明治神宮にまつられました。
内苑外苑一帯にわたって鬱蒼と繁った緑したたる常磐の森は、神宮ご鎮座に当たり、全国から献木されたおよそ12万本、365種の人工林で面積70万平方メートルは国民の心のふる里、憩いの場として親しまれています。
明治45年7月30日に明治天皇、大正3年4月11日には昭憲皇太后が崩御になりましたが、国民の声としてご神霊をおまつりして、ご聖徳を永遠に敬い、お慕いしたいとの熱い願いが涌き上がり、大正9年(皇紀2580/西暦1920)11月1日に両御祭神と特につながりの深い、代々木の地にご鎮座となりました。
御創建当初の主要建物は、惜しくも大東亜戦争で空襲に見舞われて焼失しましたが、昭和33年11月、現在の社殿が復興されました。建築様式は檜素木造が主体で、屋根は銅板葺です。
<抜粋・明治神宮由緒書>
明治神宮・第一鳥居 |
明治神宮・第二鳥居 |
明治神宮・第三鳥居 |
明治神宮・楼門 |
左:大正9年創建時に奉納された楠 夫婦楠として親しまれている御神木 |
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明治神宮・外拝殿 |
明治神宮・内拝殿 |
いつもどおりの雑踏。原宿駅から明治神宮へ歩む。この駅前の雑踏さえなければこれほどに恵まれた立地環境はそうそうないだろう。
今回は再録のための参拝であるからはじめての神社というわけでもなく、いわば初見のドキドキ感は特にはない。ただ、紀元2600年記念で植樹された人工の社叢を歩む感覚は変わらない。とても人工林とは思えないほどの密度を毎回感じてしまう。
一の鳥居から二の鳥居まではほぼ直線の参道を歩む。二の鳥居は木造の明神鳥居としては最大級の規模(昭和50年12月23日竣功・高さ12メートル)であるという。鳥居の上部には黄金色に輝く菊の御紋が見受けられる。さすがに天皇様の神社、であった。深く一礼をして足をすすめる。この参道の左側は明治神宮御苑。もともとこの御苑は江戸時代の大名家(加藤・井伊下屋敷)の庭園があった場所であり、明治期に皇室御料地となった名苑。ちなみに拝観は500円とのことで、私は中には入ったことはないが。どうにも庭園を楽しむ風流心はまだ未熟なので。
第二鳥居から先は90度に折れ曲がり、その先に第三鳥居があり札所などの先に楼門がある。楼門と回廊にかこまれた境内はひろびろとしている。さすがに明治神宮。普通は外拝殿で参拝。外拝殿からなかを覗くと拝殿があり、さらにその向こうに本殿(みえないが)がある。外拝殿にはやはり札所があり御守り等はここで買える。私は朱印が欲しかったので窺ってみると「神楽殿」にて承っている、とのこと。
結婚式(この日は土曜日)がさきほどから頻繁に行われている境内はちょっと慌ただしく、そして賑やかで、なにやら見ていて飽きることがなかった。こまったことに結婚式は神楽殿を使用している。・・・つまりなんの関係のない私が神楽殿のなかに足を踏み入れるのはかなり緊張。自動ドアを通った瞬間に不審のまなざしをむけられてしまうので、さっそくに受付の巫女さんに「朱印を頂きたいのですが」というと、やっと警戒を解いてくれた。
それにしてもあいかわらず明治神宮は巫女さんが多かった。とくに意味はないが。
あとは雑事。今回は駆け足(いつもかもしれないが)なので、宝物殿等に足を運ぶのはまたの機会にして、「東郷神社」に行くことにする。あいかわらずの原宿の雑踏を駆け抜けて。
いつもながら、東郷神社に行くのは疲れる。この雑踏のなかでバカバカしくもある。ことさらに神社に行くのが。そんなこんなを東郷神社の立地環境を恨みながら、まわりの雑踏をかきわけて歩く。
「東郷神社」
(府社・朱印・渋谷区神宮前鎮座)
祭神:東郷平八郎(元帥海軍大将従一位大勲位功一級侯爵)
東郷平八郎は弘化4年(1847)12月22日鹿児島生まれ。空前絶後の大勝利を得た日露戦争時の聯合艦隊長官。世にいう日本海海戦で戦艦6隻を含む敵艦19隻撃沈、捕獲5隻、捕虜バルチック艦隊司令長官ロジェストウェンスキー以下6000余名、戦死者4500余名という多大な戦果を上げ世界最強の威名を誇るバルチック艦隊を壊滅させた。我が方の損害は水雷艇3隻沈没死傷者700余名という、全くの完全勝利であった。
この勝利は日本のみならず、当時ロシア等大国の植民地支配の圧力下にあった国々に、大きな喜びや希望を与えることにもなる。なかでも北欧で記念につくられた「東郷ビール」は有名であり、復刻版が今でも横須賀三笠で売っている。
日露戦争以前の東郷の活躍は上記の通り有名であるがあえて戦後にも触れておきたい。日露戦争後明治38年軍令部長に親補され、また明治40年に伯爵、大正2年には元帥となり、大正3年(1914)から7年間東宮後学問所総裁として皇太子(昭和天皇)の御教育の大役を果たしている。まさに明治大正昭和三朝に至誠一貫奉仕し国家の重鎮として位人臣を極めていた。
昭和期の東郷は「生ける神様」として海軍に君臨しており、それゆえによからぬ影響力を行使してしまった。
昭和5年1月倫敦海軍軍縮条約が調印されたが、この批准を巡り海軍内ではいわゆる「艦隊派(強硬派)」と「条約派(穏健派)」が激しく対立。この時東郷は「艦隊派」の旗頭に担がれ、条約成立にあくまで反対。
昭和7年2月に伏見宮博恭王が軍令部長に就任。伏見宮が昭和16年4月に軍令部総長を辞するまで、英米戦に対する海軍の強硬路線の原因が作られており、伏見宮軍令部長の就任にも東郷は一役買っていた。
最後の海軍大将井上成美は「東郷さんが平時に何か口を出すと必ず失敗する」と言っていたが、東郷はあくまで「平時」ではなく「戦時」の人間であり、その意味では武人の中の武人であり、闘将であった。一方の乃木大将に比べて大正昭和を生きたことが、東郷にとっては不幸であったかもしれない。
昭和9年5月に元帥が天寿を全うされた後、国民から「至誠は神に通じる」とその一生を貫かれた御徳を長く後世に伝えて顕彰するため、神社にお祀りしてほしいとの要望と献金が全国各地から海軍省に届く。この熱意に応えて時の大角岑生海軍大臣は財団法人東郷元帥記念会を設立、全国民に呼びかけて国民からの浄財によって神社を創建することになった。(大角海相は山梨勝之進大将や堀悌吉中将などの条約派を一掃する「大角人事」を断行した大臣であり、このあたりにどうにも私は疑惑を持ってしまうが…。)
明治神宮に近い元鳥取藩主池田侯爵邸に神社の創建を決め、昭和12年9月に地鎮祭、同15年5月27日の海軍記念日に御鎮座祭が行われ、欅(ケヤキ)と檜素木、神明造檜皮葺の東郷神社が完成した。
東郷神社・正門鳥居 |
駆逐艦神風会及び波風会有志他奉納の燈籠(第一駆逐隊) |
旧・水交神社の鳥居 |
水交神社鳥居は 築地の水交社にあった明治44年造の二代目鳥居。 昭和3年に水交社とともに芝に移転。 その後は東京水交社とともに進駐軍に接収され、 昭和56年に現在の(財)水交会に返還。 同年に東郷神社に奉納された。 この鳥居は日本海軍の栄光と苦難を ともに歩んできた往時を知る貴重な鳥居。 |
手水舎及び敷石 手前が海軍経理学校正門名残の敷石。 明治7年10月に創設された海軍会計学舎以来、 昭和20年9月に海軍経理学校が幕を閉じるまで 71年間に約1万人の海軍主計科基幹要員を育て、 戦後も各方面で活躍した人材が踏みしめた名残の敷石 |
瓢箪型の水口・洗心 |
潛水艦殉国碑 多大な犠牲をはらった潛水艦の殉国碑。 潛水艦司令塔横断面をかたどった碑に 実物の潛望鏡をはめこみ、 背面には殉国者全員の霊名が封入されている。 昭和33年除幕。 |
海軍特年兵の碑 昭和16年から14歳少年の志願者を採用した 海軍特別少年兵(特年兵)の殉国碑 昭和46年に高松宮同妃殿下の御台臨を仰いで除幕。 碑銘謹書は野村直邦元海軍大将による。 中央に香淳皇后御歌を刻む やすらかに ねむれとぞ思ふ 君のため いのちささげ志 ますらをのとも |
東郷神社・神門 |
東郷神社・拝殿 |
東郷神社境内霊社・海の宮 |
東郷神社境内に鎮座していた砲弾? |
原宿の雑踏を抜け、やっとこさ東郷神社に到着。最近の私は神社趣味者と思われているが、私の本質は海軍趣味者。専攻が海軍史なので、この東郷神社に関してはいろいろと思い入れがある。おかげで写真もバカに豊富になってしまったが。
東郷神社はなかば抜け道とかしている。社頭を通過する人は休みなく流れているが、中で参拝をしようとする人間はほとんどいない。ときどき参拝する人がいるぐらい。個人的に昭和の東郷は嫌いではあるが、そこは明治の東郷に敬意を表して篤く参拝することにする。
ただ、この神社。無意味にゼット旗があり、無意味に「皇國の荒廃この一戦にあり 各員一層奮闘努力せよ」などと大きく掲げられた看板がある。そして「日本海海戦大捷100周年記念大祭〜平成17年5月28日〜」と書いてある。隨分先のことを大々的に宣伝。それもロシアに大勝した思い出なんて、いまの日本人はほとんど認知していないだろうに。
朱印を頂戴する間に御守りなどを眺める。「海上安全」「必勝御守」のおまもりはあって当然だが、結構面白いことに「航空安全」の御守りまでもある。冷静になると「東郷平八郎」と航空は一切関係ないんですけど。海軍=海軍航空隊でもいいですけど、東郷の時代はねえ・・・。
へたな神社よりも海軍趣味者にとってみどころの多い東郷神社のあとは地下鉄千代田線にのって乃木坂にむかう。つぎは乃木神社に行こうかと思う。この乃木神社も何度か参拝しているので何をいまさら的に書くことはあまりないが。
「乃木神社」
(府社・朱印・港区赤坂鎮座)
祭神:乃木希典(陸軍大将)
配祀:乃木静子(乃木希典の妻)
乃木神社の祭神は「乃木希典命」(陸軍大将)、配祀が「乃木静子命」。
乃木希典大将といえば日露戦争の旅順攻略戦があまりにも有名。第三軍司令官を拝命して旅順要塞や203高地をめぐる戦い。児玉源太郎との友情。武士道の面目を立て歌にまでなった「水師営の会見」。学習院院長として皇孫殿下(昭和天皇)との交流。そして明治天皇崩御に際しての殉死。彼一代を語るものは多く彼の生き様そのものが明治人の一大叙情詩であった。なお乃木希典の殉死に関しては「乃木邸散策記」を参照にされたい。
大正元年9月13日、明治天皇の崩御に殉じて乃木将軍御夫妻が自刃された。その誠烈に感激して乃木邸に来館する人は後を絶たず、そこで当時の東京市長らが乃木邸を保存し且つ御夫妻の英霊を祀り国民崇敬の祠となさんことを期し、中央乃木会を発足。明治神宮の御鎮座に続いて大正12年(1923)11月1日乃木神社御鎮座祭を執行することになる。昭和20年5月25日、空襲により本殿以下社殿が焼失したが昭和37年9月13日に復興した。
なお併設の乃木邸は毎年9月12日13日に一般公開されている。
乃木神社・一之鳥居 |
乃木神社・二之鳥居 |
なにやら結婚式をしてました。これは神職ですが。 |
乃木神社・拝殿 |
地下鉄乃木坂駅の1番出口のすぐ横に乃木神社一之鳥居がある。
乃木神社を参拝。むかしは乃木希典という人物が嫌いであったが、近代史の流れを学ぶと供にこの認識も不思議と変わっていった。
光輝とした「明治」の中で時代の象徴として、人間として、至誠の人として、「乃木希典」がそこに存在していた。そして乃木希典は神として祀られた。それだけの事であった。しかし、これだけのことをやれた人物はそう易々とはいない。「乃木希典」という生き様の詩のかたちがそこにあっただけ。
「宝物殿」にはいる。防空壕のような感じの入口をはいる。なかには遺書や時世の和歌などが展示してある。いままでの神社とは違い空気が張りつめられ誰もいない空間の中、「乃木希典」と対座する。あまりにも神々しい存在を感じてしまい、神の実体をも「乃木希典」という響きがかもし出していた。私の頭はだんだんと思考する力を奪われてしまった。
ここもあいかわらず結婚式。この日の参拝神社はどこもかしこも結婚式で疲れてしまった。乃木神社で結婚式を行う人は神社がどんなところか絶対に分っていないと思うが。
このあとは同じ赤坂にある赤坂氷川神社(府社)を経由して日枝神社(官幣大社)を参拝。ただ、帝都の風景とは言い難いので別立てにしようと思う。
<参考文献>
各神社由緒書き。
<あとがき>
この作品は「由緒部分」を撤去済みの旧作からコピーし、参拝文と写真を今回あらたに掲載いたしました。前作の写真が見苦しく文章も稚拙(今もだが)だったのに絶えられずに再訪し再掲載となりました。御了承下さい。