乃木邸散策記
明治45年7月30日、午前零時43分。明治天皇が崩御された瞬間、「大正」が始まった。
改めて言う。大正は始まっていた。ただ、乃木希典の時間の流れは「明治」で止まっていた。崩御からの1ヶ月半の「大正期」に乃木希典は生きていなかった。
あえて言う。明治45年9月13日。明治天皇大喪の日。
朝8時すぎ。あらかじめ呼んであった写真師に幾枚かの写真を撮らせた後、殯宮に参拝した。
乃木はその殉死をする瞬間まで静子夫人を道連れにするつもりはなかった。そのことは前日に書いた遺言状に妻の生活について書いていることからも明らかであった。しかし、9月13日午後8時、乃木夫妻は殉死した。
大喪の葬列が宮城を出発するのは午後8時。
その時には殉死していた。静子夫人は短刀を用い自ら三度、胸を刺した。一度目は胸骨が刃先を遮り、二度目は右肺を刺したが死にきれず、三度目はすでに力つき傷も浅かった。状況からすれば希典が手伝うしかなかった。最後は短刀の刃先を左胸部にあて力を加えた。これが致命傷になって刃は心臓右室を貫いた。
希典は、夫人の姿をつくろい、そのあと正しく作法通りの「十文字腹」を切った。軍刀を抜き、刃の一部を紙で包み、逆刃で左腹に突き立て、へそのやや上方を経て右にひきまわし、一旦刃を抜いたあと、交差するように刃を十字に切りさげ、さらに右上方にはねあげた。
しかし作法通りの切腹には介錯が必要であった。希典は独力でやらなければなかった。彼は軍服のボタンをことごとくかけ、服装をつくろったあと、軍刀のつかをたたみの上にあて、刃を両手で支え、上体を倒すことでのどを貫き、その死を一瞬で完結させ「殉死」していた。(以上司馬遼太郎著『殉死』を参考とす)
遺言によって「乃木希典」邸宅は東京市が管理することとなった。現在は港区赤坂土木事務所が管理をしており毎年9月12日13日のみ邸内の一般公開が行われている。
高校時代は「乃木希典」なる人物を嫌悪していた。それは海軍が陸軍を嫌悪するがごとき些細なことであった。
司馬遼太郎に『殉死』(1978年・文春文庫)という作品がある。『坂の上の雲』で明治を語った司馬遼太郎はこの『殉死』によって明治の幕引きをしたが、大正昭和に本格的に踏み込むことができなかった。
今回はこの『殉死』を読書してから、邸宅見学に訪れることにした。
「乃木神社」自体は「こちら」にかいたので、今回は重複を避けるため「乃木邸」に筆の重心をおいて、話を進めたい。
連れ人が2人いた。彼らが乃木希典をどう思っているかは知らない。ただ両名とも、近代史の素養を十分に持ち合わせており、ご同行の共としてこれ以上に心強いものはない。
礼儀として「神社」に参拝する。神楽が執り行われ、なんとも空気が重い。「宝物館」に向かう。結構、人が多い。それも我々のような「近代史趣味者」ではなく、あくまで普通の婦女子の姿にしか見えないような人々が多い。
「乃木邸」
フランス軍隊の建物を模して自ら設計したといわれており、明治22年(1889)に新築、同35年(1902)に改築されたものである。
木造の日本瓦葺きで、正面玄関から見ると全体は2階建てにみえるが、実際は傾斜を利用した3階建てとなっている。建築面積は168平方メートルの建物。この建物は地階の天井が一階の床板となっており、一階の天井が二階の床板を兼ねているという合理的な構造となっている。当時の将官の邸宅としては非常に質素であり、簡素で合理的に造られた邸宅は、明治期の和洋折衷建築として大変貴重なものである。
鬱蒼とした乃木邸内。気分は重くなる。明治期の建造物を幾多か見てきてはいるが、このような暗雲たる気分にさせる建物を私は知らない。「乃木希典」という一介の人物がなせる幻想が、私をますます気重にさせる。
外見よりも以外と狭い。最も各部屋に入れないから狭いわけで、自由に往来できれば今日的概念では広い方に分類されるのであろう。
地階は内玄関から入るようになっており、我々見学者も一階の表玄関ではなく、地階の内玄関からはいる。地階には「広間」「書生部屋」「台所」「料理場」「茶の間」「女中部屋」「浴室」等がある。
一階に上がる。一階は表玄関側に「大応接室」「小応接室」「書斎兼来賓食堂」があり、地階からの階段に面した側には「大将居室」「夫人居室」がある。十分広いように見えるが「陸軍大将」として考えると「書斎」が「来賓食堂」と兼用されている点からも、その合理性というか苦しさがわかる気がする。もっとも苦しいのは、そのようなことを気にしない乃木大将ではなく来賓の方ではあるが・・・。
二階は構造上、屋根裏ともいうべきもので「書庫」と「令息居室」しかない。しかし乃木の令息は「西南戦争」や「旅順攻防」で戦死しているので、その晩年は乃木夫妻と女中らによるささやかな生活が営まれていたであろう事は推測できる。
問題の部屋。そして見学者が一番集まっている部屋がある。「大将居室」。すなわち「乃木夫妻殉死」の部屋。遺品が並べられている。そして部屋の中央にはおそらく「血痕のシミ」が作り出したであろう一角がある。
たしかどこかで聞いた話がある。普段はこの「血痕のシミ」がついた畳の筵を保存しており、展示の日だけこうやって並べているという。見学時には気がつかなかったが写真で見て思い出した。その「血痕のシミ」がついた「むしろ」だけは、分離可能というか「保存可能」である。もっとも、厳重な保存をしておかなければ、とてもじゃないが残る代物ではないだろう。
外に出る。外は以前見学したから真新しいものはない。ひとつ変な像があったが、特に目を引くものではない。
「馬小屋」がある。60平方メートルのレンガ造り平屋で明治22年(1889)に建造。馬丁室を持ち、屋根裏は馬糧庫を兼ねている。住居は木造で質素であるに比べ、馬小屋がレンガ造りで豪華であるといって評判に為ったという。
殉死 |
地階の風景(上天井板が二階床板ともなっている) |
室内(掛かっているものは「孫子」の一部) |
室内(像は乃木大将胸像) |
三階廊下(内装がよくわかる) |
表玄関 |
表門 |
レンガ造りの馬小屋 |
乃木邸を出る。同行の両名と共に「次にどこにいくか?」という話になる。まだ時間はあった。「乃木邸散策」が本日の目標であったからには、すでに目標は達成し終わっていた。
神社趣味者としての一意見をいう。「この先に官幣大社の『日枝神社』があるんだけど・・・。」しかし、あえなく却下。両名とも近代史趣味者ではあるが、神社趣味者ではない。ゆえにまあ、仕方がない。
結局、どういうわけかわからないが、とにかく近くということで『青山霊園』に向かった。
墓巡りをして皆疲れたので、ゆえにどこかで休息しようということになった。知らずと意見は一致する。
地下鉄に乗って、休息場所に向かう。その地は「靖國会館」であった。ここは無料で「お茶」を振る舞ってくれる貴重な魂の休息場であり心のオアシス。なぜだか、我々が集まると最後はこうなってしまうのであった。
〈あとがき〉
なんなのでしょうか。なんとも、筆の進みが遅かった作品です。青山霊園は結局、文章ネタなしでした。写真も良好ではないし、やはり墓園でカメラを使うものではありません(笑)。
〈参考文献〉
『殉死』 司馬遼太郎著 文集文庫 1978年9月
各種パンフレット
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