「靖國の櫻花」
<平成16年3月28日撮影>

なんとなく靖國でなくてもよい樣な氣がする。

前日から高熱で伏寢してゐた。
この日の朝も氣分は良くなかつた。
午後、徐々に快復してきた氣がする、ことにしておいた。
窓の外は、溢れんばかりの青空に包まれてゐた。
仕事も休みなのに、このまま寢て過ごすのはたとへ体調不良でも面白くない。
むしやくしやと腹がたつてきたので「櫻」を鑑賞しにいくことに決めた。

私は單純な人間。櫻と言へば、名所はここである。
靖國神社

毎年毎年、欠かさずに櫻花には逢ひに行つてゐる。
呼ばれてゐる氣がするから。

一木一木に息づく「魂の結晶達」に逢ひたかつたから。
英靈たちが、戰友達が、遺族達が、魂をこめた「櫻花」だから。

日曜日。晝下り。
確かに訪れる時間と曜日を間違へてゐた。ただ、私は時間も曜日も考へる頭は持ち合はせてゐなかつた。
ただただ、櫻花に逢ひたいといふ一心だった。

正直、つまらなかつた。真面目につまらなかつた。
こんなはずではなかつた。
なぜだらう。心が冷え込んでゐた。醒めてゐた。

靖國を思へば思ふほど、そこに體温の違ひを感じた。世間一般との温度差、意識化の相違を体感した。

青空の下で「靖國櫻」は伸び伸びと生命を喚起させてゐた。
群がる人びと。見上げる人びと。歩き、止まり、構へる人びと。
撮影する人びと。撮影される人びと。
參拜する人びと。

間違つてはゐない。

櫻であり櫻花であるのだから。

ただ、ここは靖國神社でなくても一向に構はない空間であり空気であり、人びとであつた。

「靖國の櫻花」としての主張を捉へてゐるのは、私。
私はここが「靖國神社」でなければいけなかつた。
ここが「靖國神社」であり、そして目の前には「靖國神社の櫻花」が咲誇つてゐなくてはいけないのだ。
靖國の櫻、一木一木に英靈や遺族や戰友たちの想ひが込められてゐることを忘れてはゐない。
そんな櫻花の花瓣をながめながらおもひをはせる輩がゐる事も忘れてはゐない。

靜かに幹に手を添へて「ありがたう」と念じる。

ただ、やるせなかつた。
そんなやるせなさが「つまらない」と化すのだらう。
なんか私の信念が無駄に疲れるやうだ。正直、どうでもよくなつてしまつた。

私も、かなり惰弱化してゐる・・・
世間の波に呑まれつつある・・・

一通りの信念を貫き、世間の人びとと同じ樣にカメラを構へる。
新しく買つたカメラの性能を堪能しつつ、群集と化す私・・・。

それでも群集に馴染めない私。
單純に撮影をしてゐる輩とは、違ふのだから。
新しいカメラの記念すべき一枚目。
靖國の櫻花に彩らせたかつたのかもしれない。

靖國の櫻花
神門
靖國の櫻花
櫻花
靖國の櫻花
櫻花
靖國の櫻花
櫻花一輪一輪に英靈の想ひがあるのだらうか
靖國の櫻花
都市部の櫻花はしろいといふ
靖國の櫻花
微妙な色合ひを樂しめるともいへる
靖國の櫻花
櫻花の梢でくつろぐ白鳩
靖國の櫻花
白鳩
靖國の櫻花
舞殿前
靖國の櫻花
神門
靖國の櫻花
斎館前
靖國の櫻花
品川弥二郎像前
靖國の櫻花
千鳥ヶ淵
靖國の櫻花
千鳥ヶ淵



拜殿や參道の寫眞はないです。
無駄に群集が寫つてゐて、掲載できるやうな寫眞ではないので・・・。
參集殿が假設なのがさらに輪をかけて・・・。


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