『國神社を想う』〜人を祀るということ〜


*当文章は「奇魂第五號」に寄稿した論文です*
*執筆時期は初稿平成14年5月・改訂は平成14年11月*

目次
はじめに神に祀るということ御霊信仰と顕彰信仰國信仰と祖霊信仰國の想い



はじめに
 そもそも、日本人は「國神社」というものを如何なるものと考えているのだろうか。
 私は歴史を専門に研究してきた人間であり、明治維新以来の國神社が歩んできた過程は人並み以上には存じている。一方で神道・神社知識は人並みにしか有していない。ゆえに歴史に偏重するあまり、私にとって國神社は「歴史表現物」として近代史を体感する「装置」という認識をしてしまうときがある。
 しかし國神社は当然「神社」であり、歴史だけを物語るために鎮座しているわけではない。そこには日本の伝統が培ってきた魂が息づいており、日本人の心がある。我が国が生みだし、歩んできた思想・信仰・風習という面から、この國神社が鎮座している。
 國神社の特殊さは、その過程がそのまま「日本近代の具現化」であり、国家のために殉じた「英霊」が祭神であることだろう。それでは、人を祀ることの原点・下地はどこにあるのだろうか。これらを基本として國神社の深層心理を考えていくとともに、日本が失ってきた「日本人の心」を探索したいと思う。



神に祀るということ
 國神社が明治二年六月に「東京招魂社」として設立されたことは周知の事実であるが、國神社を「イデオロギーの象徴施設」としか認識できない人は「國神社とは招魂社である」という至極当たり前の事すら理解できないだろう。東京招魂社の意義は一言でいうなれば「戦禍で斃れた者達の霊を慰め、その遺志を長く祈念するための社」である。戦没将兵の慰霊鎮魂の為に、それが各藩ごと(官軍・幕府軍側問わず)であれ民間であれ明治政府であれ、慰霊・鎮魂・招魂の祭祀が各地でとりおこなわれたことは何等おかしなことではない。これは自然な風習であり、何等「人工的」でも「作為的」なものでもない。例えば、明治政府が主宰した「國神社」がこのような「人を神に祀る風習」に反して、抑圧的なものであったならば、国民の信頼は決して得られるものではない。また「國信仰」が強制されたというなら創立以来130年以上も祭祀が休むことなくとりおこなわれ、確固たる民間によって維持されていることは何を意味しているのだろうか。そこには民間風習が伝統として生きており、國信仰が深く民間に根付いているからではないだろうか。では、その「國信仰」に連なる「民間信仰・民間風習」とは何であろうか。

 この世に生をうけ、そして亡くなった者を「カミ」として祀り上げる事は古くからの風習の一つであった。人を神に祀った施設で圧倒的に多いのが「神社」である。当然これらの祀り上げの儀式は、古俗に基づく「鎮魂(たましずめ・おおみたまふり)」に基づく神道式でとりおこなわれた。
 一方で本来の仏教は「魂」の存在自体を認めなかったはずだが、日本の風習に侵入し神道と巧みに融合した外来宗教の仏教(大乗仏教系)は「誰でも彼でも死ねばすべてホトケ」「死者を無差別に皆ホトケといふやう」(柳田國男『先祖の話』)になり、死せる霊を「成仏」という形で遠方(極楽浄土)に送りつけようとばかりし(柳田翁によれば霊は国土にとどまるという)、さらに祖霊の融合を認めず、古代以来培ってきた魂思想を機能神(守護神)信仰にねじまげ、家々の先祖祭や死者の霊の管理・葬送儀礼に関与しだした。その結果「霊堂・霊廟・供養卒塔婆」等に「霊」が祀り上げ「人を祀る寺院」の例も多くなった。仏教でも東南アジアに波及した部派仏教(=小乗仏教。近年の仏教界では小乗仏教とは呼称しない)系の生死観は「輪廻転生」、つまり生まれ変わりの精神であるので、そこには慰霊の精神は存在しない。よって部派仏教系では日本人は無意味な信仰をしていると思うだけである。日本国内でも浄土真宗(真宗・一向宗)系は、その開祖である親鸞が先祖供養は不要だと主張しており、またシャマニズムや霊魂等を認めていないキリスト教が國の慰霊行為に納得行かないとするのも敬虔な信者であればやむおえない。そこはお互いの宗教文化が培ってきた伝統を尊重する必要があるだけであり、互いの宗教論で否定するのはナンセンスで、まったく無意味な事である。
 さらには宗教ではないが共産主義者・社会主義者というものはマルクス主義的唯物論に従っているはずであり(唯物論では物質のみが真の存在である)、物質から離れた霊魂・精神・意識を認めず、意識は高度に組織された物質(脳髄)の所産であるとしている。つまり人間の霊魂などは認めていないので同じく慰霊行為というものは無意味な事であるという認識のはずである。もし霊魂の存在を問題にする共産主義者・社会主義者というものがいたら、それは自らを否定しているだけであり、これほど滑稽なこともあるまい。だから彼らが「思想・信仰」という宗教問題に口を出すのは全くおかしな話であり、あくまで政治・外交問題という面でしか触れることが出来ないはずである。私は思想・信仰の面から國神社を考え直すこととし、そのような國神社を巡る政治・外交問題に関しては多くの良識ある意見に譲りたいと思っている。
 念のため触れておくが、日本伝統の「カミ」とキリスト教的唯一創造主「God」とは全くの無関係である。「霊魂・祖霊=カミ=神=God」と連想して貰っては困る。以下は余談だが「 天皇=現御神・現人神」という概念は「God=絶対神・全知全能神」ではなく、あくまで万世一系の尊い伝統をもつ皇祖皇宗の神裔であらせられ、日本的シャマニズムによる「カミ」であらせられるという概念である。端的に言えば日本のカミは同時に人間であり、だからこそ人間がカミとして祀られてもなんらおかしくはない。これをGHQはキリスト教的発想によって誤認し昭和二十一年に 昭和の天皇陛下による奇怪な「人間宣言」という勇み足を踏んだが、 天皇家は一度も「自分は神である」と宣言したことはなく、よって「自分は神ではない」と宣言する必要も無いはずであった。ただ一部に「 天皇は神だ」と利用した人間が居ただけであり、すべてにおいて 昭和の天皇陛下には御苦労が堪えなかったことを申し訳ないと思う次第である。そのような宣言がなくとも 天皇家と日本国民は日本的風習によって共に歩んできたのであり、決して断絶する関係ではない。

 外れた話の筋を戻す。カミ・ホトケ・霊・魂と呼び名は様々にせよ「人を祀る」という根底には大差はない。「人を祀る」延長線上に「國信仰」がある以上、この古来の風習の起源を探っていく必要があるだろう。
 柳田國男翁は人を祀る風習の根源について「最初に外から持ち込まれたと認むるべき証拠が無い」が「民族固有のものだとする」理由も積極的には明確ではない、としている。「単に外から入つたもので無いならば、元から在つたと見るべきだと謂ふに過ぎぬ」ので、その「元から」が容易ではないが「永い年月の間に極めて徐徐として、所謂人格崇敬の思想は養はれて来たのである」としている。つまり根源を明確に出来ないほど身近なことであり死者の霊魂は生者が慰め供養するしかないという観念を日本人は伝統的に培ってきたのである。しかし柳田翁は人が祀られるのにかつては制限があったとし「弘く公共の祭を享け、祈願を聴容した社の神々の、人を祀るものと信ぜられる場合には、以前は特にいくつかの条件があった。即ち年老いて自然の終りを遂げた人は、先ず第一に之にあづからなかった。遺念予執といふものが、死後に於てもなほ想像せられ、従って?々(しばしば)タタリと称する方式を以て、怒や喜の強い情を表示し得た人が、このあらたかな神として祀られることであつた」(柳田『人を神に祀る風習』)とされている。本来、死後に祀られる霊魂は「祟り」という観念に基づいており、とりわけ祟ることがない一般の死者の霊魂は「先祖」という霊体に融けこんで家(私)や公のために活躍する我が国固有の氏神信仰・祖霊信仰に基づく霊魂観念となり(柳田『先祖の話』)、これらの祖霊は子孫によって祀られるべき神格であった。同じ「カミ」でも「遺念予執の人を神に祀る」はその多くが御霊信仰(怨霊信仰)であり、一方で「先祖を神に祀る」は祖霊崇拝(祖先祭祀)といえる。「人を祀る」という古来風習も歴史がたつと「生前に傑出した業績を残した人物を祀る」という「勲功顕彰信仰」というべき風習が出来あがり、いわば三種の「人を祀る」信仰があるといえる。



御霊信仰と顕彰信仰
祟り神系は一般的には御霊信仰(怨霊信仰)とされる。この世に怨みを残して死んだ者の霊魂は、生者に祟りをなすと考えられ、これらの怨霊・亡霊は御霊・物の怪と恐れられてきた。本来の「たたり」という言葉は神の示現をいう意味にすぎなかったが、「巫蠱(ふこ)の幣なるもの」が「たたり」を変容させたという。(柳田『先祖の話』)この巫蠱=呪術者が「たたり」を「祟り」として恐怖の世界の怨霊として明確化させ、本来は霊魂に関して沈黙していた仏教(密教)による呪術と古来の鎮魂儀礼の融合によって奈良末期から平安時代(最澄や空海が帰朝し密教を導入した後)に急速に「御霊信仰」が広がっていった。本来は天皇家の死者の霊を特別に御霊と呼んだが、このころには非業の死を遂げた人々の霊魂を御霊と呼ぶようになり、平安時代には疫病・飢饉・地震・雷等のあらゆる災害が、御霊の仕業とされ、これらの怨霊を鎮魂するための儀礼が必要となっていた。
 古来、怨霊とされる霊も「神」として祀り祭礼儀式を行うことによって常に鎮魂してきた。その供養の結果、祭神の業績や伝説が世に語り継がれていくにつれて怨霊の力は弱まり祭神の性質がマイナスからプラスへと転換されていくことになる。例えば有名な菅原道真が死後四十数年後に北野神社にまつられ、その後「文筆・学問の神」として祭神が顕彰されるように。
 この顕彰化ということが後世に着目され「顕彰神」という人神が発生することになる。一般的に「一定の年月を過ぎると、祖靈は個性を棄てゝ融合して一体になるものと認められて居た」(柳田『先祖の話』)といわれており神になれない「霊」というものは三十三年忌(もしくは四十九年忌・五十年忌)で最期の法事を行い「先祖」になるといわれている。つまりある程度の年月がたつと故人は先祖という枠の中に埋没して忘れ去られ記憶として残らなくなってしまう。しかし人を神に祀るということはその人物が永遠に記念として記憶され伝承されることを意味する。遺念予執がまったくなく祟り神とは到底思えない権力者や偉人が神として祀られる理由の一つにはこの記憶・記念される「顕彰」という機能が働いているといえる。つまり「祟り神」も時と共に「顕彰神」に転化するという根本があり、祭神が記憶・記念される場として神社が存在している。それもその神社が後世まで永続祭祀・信仰されていくという根本があって記憶され記念されるのである。このように「御霊信仰」と「顕彰信仰」というものは対極線上にあるもののようにみえて実は非常に近い関係にあるということがわかる。
 また天変地異等が「祟り」として認知認識されるときは得てして「政情不安定」な時である。誰かが「あれは祟りだ」と認定して「祟り神」を捜してこない限り「怨霊」は表面化して来ない。その「怨霊」を祭祀する役割は為政者や民衆が担っている。特に為政者にとっては政情安定化のために政治的目的で神社建立をするのが最良であった。つまり怨霊の転化ではなく最初から顕彰目的で建立された神社には政治的効果が大きいとされる。明治期の神社建立の動きを「国家神道のもとで、天皇崇拝を主軸に神社を再構築し、人為的作為的に改変し、国家神道の思想に立つ神社を次々と創建した」(村上重良『慰霊と鎮魂』)とみる見方もあるが、顕彰すべき必要性がない神というものもありえず、もし作為的作られた「顕彰に値しない神々」なら、少なくとも今の世の中では信仰されなくなるはずだが、明治以来の神社も今日多くの信仰を集めている。



國信仰と祖霊信仰
 今まで「國神社」にはほとんど言及してこなかった。人が祀られる概念のうち「御霊信仰」と「顕彰信仰」について触れたからには、これらの信仰は「國信仰」と関係あるのだろうか、という疑問が出てくる。もっとも「御霊信仰」に関しては答は簡単で「國の祭神は怨霊ではない」という至極当たり前の答が出てくる。ただ今日でも國神社は怨霊の集う神社だと思っている人がいるらしい。國の神々の性質を鑑みれば「祟り神」のはずがないことは自明である。一部の偏向的に慈悲深い方々は「戦死者=怨みを抱いて死んだ=怨霊」という図式によって「國の英霊=怨霊」と考えているらしい。根本的に國の神々はたとえ非命に斃れた者だからといっても尊い犠牲によって祖国のために身を捧げた者の霊であり、祖国や祖国の国民に祟る神々のはずがない。もっとも、「怨霊」と考える人々は國神社の神々に祟られた経験があるのかもしれないし、國の神々も偏向的に作為的な人間には祟りたくもなるかもしれないが、少なくとも私は「怨霊」だとは思っていない。
 また「靖国神社は起源は御霊信仰の系譜を引きながら、明治新政府の成立による官祭化とともに慰霊のための招魂祭に変質して伝統的な民間信仰から乖離し、靖国神社への改称とともに慰霊に加えて勲功顕彰という性格が強く打ち出された」(大江志乃夫『靖国神社』)という説がある。「顕彰信仰」に関してはあえて否定も肯定もしない。なぜなら先ほどから述べているように「神」というものは転化し最終的には「顕彰」されるものだからである。私は彼ら「國の英霊」を慰霊鎮魂はするが、特別に顕彰のみで接しているわけではない。

 「人を神に祀る」概念を三種類あげたが、一番最初に取りあげた「祖霊信仰(氏神信仰)」に関しては未だ詳述していない。「祖霊信仰」とは先に触れたように「先祖」という霊体に融けこんで家(私)や公のために活躍する我が国固有の霊魂観念のことを指し、本来これらの祖霊は子孫によって祀られるべき神格であり、子孫が先祖の霊を敬虔に祀り、それに対して「先祖の霊」は子孫の守護神として応えてくれるというものである。
 以下、加地伸行氏の意見を参考にする。東北アジア(儒教文化圏)では亡霊を招き慰霊するシャマニズム(魂降ろし)が基本的宗教感覚であり、死者と生者とのきずなを断ち切ることのない祖先祭祀(仏教的には祖先供養)という宗教感覚が儒教によって体系化されてきた。日本古来の神道の根底はシャマニズムであり、印度から中国に波及した仏教(大乗仏教系)も儒教的慰霊観を取り入れ先祖供養重視の日本仏教に発展した。日本の古来神道は仏教・儒教体系や道教理論が伝来するにつれて原始信仰的なものから徐々に体制を整えていったが、ただ日本の神道は儒教にはない「穢れを忌む」思想があった。死に際しての火葬は禊的浄化であり、日本人にとっては「死」そのものは穢れである。しかし葬儀以降は「死」という厳粛な大事が聖化し、死者はカミもしくはホトケとなる。そしてこのように浄化された死者の生前のできごとを問うことは一切しない。死者は「死」という大事によって人間界の責任をすべて果たされ、あとは「カミ・ホトケ」となり人間界の子孫を護る存在となったと加地氏はいう。例えば「東京国際軍事裁判」という名の判決で裁かれたABC級戦犯の方々(便宜上「戦犯」と呼称)は現世では「法務死」という一番重い刑で責任を果たされ「カミ・ホトケ」として祀られるべき存在といえる。
 「祖霊信仰」は極めて儒教的なものであるが、そこに日本的な思想・伝統が加味されて「國信仰」が形成されてきた。私はそれらの昭和受難者たちが現世での罪を裁かれ「カミ・ホトケ」となったからには、もはや現世の罪を問うことはせず(問うこともできない)、ただ慰霊の一心で向き合うだけである。それが日本の伝統的な信仰のはずであるから。

 彼らの御霊を後世の我々はどう祀ればよいのだろうか。以下、柳田國男翁・小堀桂一郎氏の見解を参考にしたい。御霊を祀れないという事態は、家が断絶して祀る人の無い霊が出来る場合もあれば、戦火で斃れ家の跡を継ぐものがいなくなる場合もある。柳田翁によれば、それらの「不祀の霊」の増加というものは、大きな恐怖であり、盆の先祖祭にてさまざまな外精霊や無縁ぼとけ(仏教呼称)等の為に、特別に外棚・門棚・水棚と呼ばれる棚(不祀の霊を祀るための棚)を設け、供物を分かち与えることをしなければならなかったという。これが古来の家の構造であり信仰であった。『先祖の話』の末尾で柳田翁は記す。「國家の為に戦つて死んだ若人だけは、何としても之を佛徒の謂う無縁ぼとけの列に、疎外して置くわけには行くまいと思ふ。」とし、子孫が絶え祭祀が行われなくなってしまうと「程なく家無しになつて、よその外棚を覗きまはるやうな状態にして置くことは、人を安らかにあの世に赴かしめる途では無く、しかも戦後の人心の動揺を、慰撫するの趣旨にも反するかと思ふ」と切実に記している。この言葉こそが「國信仰」の原核精神を示しているだろう。
 國神社の祭神も個々の家々の墓に祀られている。それは柳田翁のいう両墓制のうち「いけ墓・上の墓・棄て墓」という、やがては記憶されなくなり(先祖と同化)、忘れ去られてしまう墓(所在不明になるのが良いとされる地域もある)であり、その地に死者の「魄」(肉体の象徴)は祀られる。一方で「参り墓・祭り墓」と呼ばれる参拝に都合の良い、社会的な霊魂の逗留地(招魂の祠)に死者の「魂」(精神の象徴)が祀られ、元の天に帰って、子孫の安寧を護ると考えられたきた。つまり、それらの招魂祭祀を司る場が「國神社」等であり、たとえ「いけ墓」での祭祀が廃れたり、または祭祀を司る子孫のない若い戦死者等の「不祀の霊」は、社会的立場ある「参り墓」での祭祀によって絶えることなく記憶され、霊は安んじてその祠にとどまり、それらの霊が「祀る者」を加護する。小堀桂一郎氏によれば「戦死者の霊を祀り、祭を営んだ人々と共鳴者が、恰も氏子が氏神に対する如き感情を自らのうちに育んでその神霊を尊崇し、かつその加護を祈るという信仰形体」が國神社・護国神社であり「霊(参い墓の霊=國・護国神社の霊)が加護を垂るべき子孫とは共同体の成員全体であると考えられる。祀る者と護る神とに関係が氏族の子孫と祖先という私的な関係から、共同体を軸とする公的な関係に移して考えられる様になる。祭神はその遺執を国を靖からしめんとの志に示現し、祀る氏子等は我等の安寧を守り給えと祈る。」とし、これこそが靖國信仰の形でもある。「いけ墓=私的な祭祀場」に対する「参い墓=公的な祭祀場」という考えによって招魂社は公的なものとして出発し、国家が主宰する祭祀によって公的な「国事殉難者」が祀られているのもなんら問題はなく自然の帰結である。

 死者の霊を慰める「國神社」とは別に、大東亞戦争戦域で収骨された「戦死者」の遺骨を祀っている施設として国営「千鳥ヶ淵戦没者慰霊塔」がある。戦後諸処の事情によりいわば「私的な宗教法人(祭祀場)」とならざるを得なかった「國神社」に対して、この墓苑(慰霊塔)は「国営」である。あくまで大東亞戦争に限っての慰霊施設として「千鳥ヶ淵」は機能している。しかし先ほどの話を続けるなら、この施設は死者の肉体としての象徴である「魄」しか存在していない。国営であれ、あくまで永久施設として「墓」の役割しか担っていない。さらにこの施設には「祭祀を司る者」がいない。つまり誰も日々の「慰霊鎮魂儀式」を行わず、あくまで公務員が事務的に「管理」をしているだけである。このような施設が慰霊施設といえるだろうか。いえるはずがあるまい。千鳥ヶ淵の遺骨は「無名」である。無名であるから「國神社」には祀られていない。しかし彼らたちは生前「國に祀られる」ということを前提に戦ってきた者たちである。不幸にも「無名」として國に祀られず、遺骨のみが収集されたが、その魂は國神社に集っているはずである。つまり千鳥ヶ淵は「遺骨」が眠るだけであり、遺骨の魂は國に宿る。國では日々欠かさず「慰霊祭祀」が行われ英霊達の御霊を慰める。本来「魄」と「魂」は合一のものであるはずだが、仏教によって「遺骨」と「位牌」とが分断されてしまったために大いなる矛盾を抱えてしまったことになる。毎年八月十五日に「千鳥ヶ淵」で「魄」に対して「慰霊」と称する儀式が行われ、本来合一である「魂」は「國神社」で「招魂」される。このような矛盾を抱えていてよいのだろうか。
 では慰霊鎮魂の施設として「國神社こそ国営にすべきだ」という声がある。本来なら國神社は国家機関たるべきだろう。いや根本の「神道」という信仰こそ「日本人の公的な信仰」とすべきだろう。(あくまで「宗教」とはせずに「信仰」というが。)ただ、そのようなことは現実には夢物語でしかない。ではどうするべきか。昭和五十三年七月から平成四年三月までの國神社の六代目宮司を務めていた松平永芳氏の意見が一番賛同的であると思う。以下一部抜粋する。「國神社は政府の維持すべき神社ではなくて、国民総氏子の神社ということでなければ、どうにもならないんじゃないかと考えています。(略)政府から庇護を受けていると、一時的にせよ、どんな政権が出現するかわからない。その時の不安があるから絶対に政府からお金は貰わない方がよいと考えているのです。仮に国家護持ということになると政府がお金を出せばよいと思うようになり、国民はノホホンとして國の存在を忘れ去ってしまうかもしれません。(略)少額でもいいからできるだけ多くの方々がここの神社を認識されて、ここのお陰で自分たちの今日の平和があるんだ、ということを理解していただくのが理想的なんだと考えております。」(『國神社創立百二十年記念特集』)たしかに、現在の國神社がなんたるかすら理解できていない政府や国に委せては、あとあとの不安が大きくなるばかりである。やはり小堀氏や松平氏のいう、この「祀る者と護る神」の関係を大切に、國神社を日本国民の氏神とした「国民総氏子」というのが理想ではなかろうか。



國の想い
 度々文中で触れている柳田翁の『先祖の話』は昭和二十年四月から五月に書かれたものである。柳田翁は日本降伏後の昭和二十年十月付けの序文に「家の問題は自分の見るところ、死後の計畫と關聯し、また靈魂の觀念とも深い交渉をもつて居て、國毎にそれぞれの常識の歴史がある。理論は是から何とでも立てられるか知らぬが、民族の年久しい慣習を無視したのでは、よかれ惡しかれ多數の同胞を、安んじて追随せしめることが出来ない。家はどうなるか、又どうなつて行くべきであるか。もしくは少なくとも現在に於て、どうなるのがこの人たちの心の願ひであるか。」と記している。しかし、この柳田翁の想いとは裏腹に、現実には「国の常識」「民族の慣習」を著しく無視し「多数の同胞」の心の願いをも度外視した愚論が蔓延している。
 一体、國神社とは何なのだろうか。私は常々考えている。「國神社・國信仰は日本人の心であり、日本人が築いてきた文化である」ということも出来るかも知れない。
 我々の多種多様の想いのなかでも不動のものがある。それが御霊への鎮魂と感謝の祈りであり、その行為は日本人の伝統でもある。国難に殉じた御霊を慰める。そこには何も難しいことは必要ない。ただ彼ら英霊の想いを記憶し、英霊たちを未来永劫に祈念し回想する。幕末以来今日まで二百四十六万六千三百余柱もの英霊たちが国家のために殉じられ、幾多の無名人が国難に立ち向かっていった。我々は日本人の一人として、彼らが身を挺して護り抜いた「日本」に生きるものとして、後世に残された義務がある。「国家」という「日本国民の家」を身を挺して護った彼らの想いを、我々残された国民が引き継ぐ。英霊たちの遺志を後世に伝え続ける。そして英霊たちは我々日本国民の「守護神」として、国家・日本人の靖らかであることを願う「國の想い」へと導き、未来を馳せていく。
 私はただ英霊たちが希求した「國の想い」を真摯に受け止めながら、改めて國神社を想うだけである。



主な参考文献(順不同)
國及び周辺事項
小堀桂一郎『靖国神社と日本人』PHP新書・1998年
江藤淳・小堀桂一郎編『靖国論集 日本の鎮魂の伝統のために』日本教文社・昭和61年
加地伸行・新田均他『靖国神社をどう考えるか』小学館文庫・2001年
吉成勇編『國神社 創立百二十年記念特集』新人物往来社・平成元年
村上重良『慰霊と鎮魂 靖国の思想』岩波新書・1974年
村上重良『国家神道』岩波新書・1974年
大江志乃夫『靖国神社』岩波新書・1984年

神道及び思想全般
柳田國男「先祖の話」昭和21年/「人を神に祀る風習」大正15年(『定本柳田國男集第十巻・新装版』所収 筑摩書房・昭和44年)
山折哲雄『日本人の霊魂観 鎮魂と禁欲の精神史』河出書房新社・昭和51年
小松和彦『神になった人々』淡交社・2001年
山本七平『日本人とは何か』PHP研究所・1989年
久保田展弘『日本多神教の風土』・PHP新書・1997年



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